『2020年新聞は生き残れるか』を読むと理解できる、権威に弱い記者の取り返しのつかない弊害。

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こんにちは、からまるです。

長谷川幸洋さんの新刊『2020年新聞は生き残れるか』にまつわる、昨日のエントリの続きです。結果的に新聞記者が取材源である政治家や官僚の意のままに記事を書くことになる現象を、長谷川さんは「ポチ化」と呼びます。ポチとはもちろん犬のこと。権力の犬になってしまうということを含意しています。

誰だって権威には弱いものかもしれません。しかし、新聞社に入社した人たちは、もともと権威に対する疑問があってジャーナリストを目指したのだと思います。しかし、昨日も書いた現実の多忙さもあって、じっくりものを考える時間がない。しかも毎日、記事を書かないといけないし、他の記者よりも優秀なところを見せたい。ほとんどの記者は学生時代、偏差値秀才でしたから、同様に偏差値秀才である取材源の官僚とは話が合う。官僚の考え方やその背景がわかってくる。なるほど財務官僚はすごいな、なるほど日銀マンはすごいな、と知らず知らずに権威に寄り添うようになる。この本を読むと、そういうことが理解できます。

しかし長谷川さんは、こうして権威に弱い記者が生まれていくことの弊害を指摘します。


「日銀や財務省に対して『成績優秀な人たちが仕事しているんだから、間違うはずがない』という思い込みで考えてしまうのである。(中略)思い込みが、いかに日本の言論空間をダメにしているか」(第2章「日銀と財務省に洗脳される記者たち」p49)


もし財務省と日銀の人たちが「間違うはずがない」ならば、どうして日本はこんなに長い間デフレ不況にはまり込んでいたのだろうか。そう考えただけでも、権威に寄り添ってポチになってしまった新聞記者の問題が浮かび上がりますよね。

長谷川さんは既刊の『日本国の正体』(2009年、講談社刊)で、自分もポチだったと率直に書いています。2005年から2008年まで財政制度等審議会臨時委員、2006年から2009年までは政府税制調査会委員を務めており、財務省のスタンスに近い考えだったと述べています。それが変わったのが、まだ財務省にいた頃の高橋洋一さんとの出会いであり、第一次安倍内閣で重要改革の政策作りに携わったことでした。

霞ヶ関中枢の視点から見れば、長谷川さんは自分たちサイドにポチとして取り込めなかった人ということになります。一時はポチだったからこそ、霞ヶ関が記者をポチにしていくプロセス(あなたほど優秀な記者はいませんよ!と言って特ダネを分ける、など)がよく見えるし、記者がポチ化していくプロセスもよく見える。そこがきっちり書かれているところが、今回の新刊の魅力です。

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このページは、karamaruが2013年11月19日 14:28に書いたブログ記事です。

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