こんにちは、からまるです。
今日のアッパレ本は、ノンフィクション作家の青沼陽一郎さんが1月末に出した『フクシマ・カタストロフ 原発汚染と除染の真実』(文藝春秋刊)です。じつはからまるは、以前、青沼さんの本の編集を担当したことがあります。『裁判員Xの悲劇 最後に裁かれるのは誰か』(2009年4月刊)。もう5年前のことです。
青沼さんは過去に『帰還せず 残留日本兵六〇年目の証言』という秀作を発表していますが、『フクシマ・カタストロフ』はそれも『裁判員Xの悲劇』も上回る傑作になったように思います。
フクシマの未来はチェルノブイリある。青沼さんは25年前に原子炉爆発事故(当地では「事故」ではなく「カタストロフ」と呼ぶのだそうです)を起こしたチェルノブイリ原発を訪ね、まだその地域プリピャチに住まう人々、避難した人々、いまも原発施設で働く人々や医療関係者など多数から、たくさんの肉声を引き出しています。それらのエピソードが、日本の被災地や、食品などで低線量放射線被害を直接間接に受けている宮城や静岡ほか各地での出来事にひじょうに巧みに織り込まれ、まるでこれから日本人が辿る行き先を指す黙示録のようになっています。事実を事実として書くだけでなく、それら事実のさらに上にある、この国の構造を、本全体で炙り出そうとしているように読めます。
とくに第5章「除染と賽の河原」は圧巻です。除染しても、除染しても、時間が経てば雨などの気象変化によって山の木々に堆積したセシウムが流されて集落を汚染する。「やらないより、やった方がまし!」と家屋の屋根瓦をブラシで擦る青年が言ったと本書に書かれていますが(そういえば、一昨日の報道番組で「嵐」の櫻井翔さんが同じ作業を体験していた様子が放送されていました)、著者はこれを、
「賽の河原は、鬼に壊されても、壊されても、繰り返し石の塔を積み重ねる子どもの前に、終には観音様が現れて救っていってくれるという俗信だった。」
と述べて(p254)、そこに「因習にも似た精神主義」を見出しています。たしかに、これが「除染」の真実なのかもしれません。
専門的なエビデンスについても、海洋の放射能汚染を調べるために港々を回って集めた魚を、版元の文藝春秋さんの会議室で解体し線量計で測り、さらに専門機関に委嘱して計測してもらってデータを集めるなど、執念が伝わってきますね。
チェルノブイリの経験は、人間の内部被曝線量は、事故直後ではなく、むしろ10年を過ぎたくらいにピークを迎えることを語っているそうです(p401)。高レベル放射性廃棄物などに比べて、あまり関心が持たれない低線量放射線被曝は、じつは今後、人間にとってひじょうに身近な危機へと変わろうとしています。四川大地震やスマトラ沖大津波の被災現場もつぶさに取材してきた著者ならではの厚みもある作品でした。