「正統派」上杉慎吉と「挑戦者」美濃部達吉の死闘。

|
こんにちは、からまるです。

甦る上杉慎吉.JPG
今日は原田武夫さんの『甦る上杉慎吉 天皇主権説という名の亡霊』の帯付きの写真をご紹介します。帯には少し小さい文字で、「上杉慎吉と美濃部達吉が命がけで戦った、天皇を巡る思想のドラマを描き出し、「天皇とは何か」を考える必読書!」と書きました。

上杉慎吉も美濃部達吉も、ともに東京帝国大学で憲法学を教える教授でした。今では上杉よりも美濃部のほうがはるかに多くの人々の記憶の中にありますよね。「天皇機関説」を唱え、立憲主義の知的基盤を学界で形成した一人です。しかし当時は、学界で権勢をふるった恩師・穂積八束教授の後継者となった上杉のほうが実力者でした。上杉が憲法第一講座の教授で、上杉より5歳年上の美濃部が憲法第二講座の教授となったのは、上杉の就任後10年が経っていました。原田さんが本書で書くように、現代の認識とは正反対で、上杉こそ「正統派」、美濃部は「挑戦者」だったのです。

上杉が唱える「天皇主権説」とは、原田さんが簡潔にまとめているところによると、「多人数の「臣民」が唯一の頂点である「天皇」の下に連なる集団」(p105)となる国家のことをさします。大日本帝国憲法第一条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」として立憲君主制を規定しているのだから、天皇すなわち国家である、と。それが「日本人であれば誰でも抱いているはずの確信」(p104)であろうというのです。

この立場が学界において、明治末期から大正元年の1911年から1912年にわたる2年あまり続いた天皇機関説論争で敗北します。学界や高級官僚の間で「上杉のザマはありませぬね」と嘲笑されるまでに上杉は落ちぶれてしまったのでした。しかし、原田さんが本書で「上杉的なるもの」と呼ぶ、人々の心の中に「確信」として存在する何ものかまでが潰えてしまったわけではありませんでした。

このブログ記事について

このページは、karamaruが2014年10月28日 14:31に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「原田武夫さん『甦る上杉慎吉 天皇主権説という名の亡霊』を10月24日に刊行しました!」です。

次のブログ記事は「今あえて歴史から抹殺された憲法学者・上杉慎吉に光を当てる理由。」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

月別 アーカイブ

ウェブページ

Powered by Movable Type 6.2.4