karamaru: 2013年3月アーカイブ

また来週!
こんにちは、からまるです。

3月26日の夜。六本木ヒルズに程近い某料理屋に、からまるを含む7人が集まりました。あるプロジェクトの顔合わせのためです。

打ち合わせの結果、あることが決まりました。これは楽しみだ。

ただし、公表は今年の冬になる予定です。この晩、集結したメンバーのイニシアルさえ書くことができません。息の長い潜航作業が続きますので、今年の冬、いやひょっとすると年明けまでお楽しみに!
編集部の一部のPCが突然、長い時間にわたってネットにつながらなくなりまして。。一時はついに講談社もサイバーテロの標的になったかと大騒ぎになったのですが、なんのことはない、LANケーブルの不調だった模様です。そのため今日は時間がなくなり、お休み<(_ _)><(_ _)>
こんにちは、からまるです。

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ご報告が遅くなってしまいましたが、3月12日の夜、ダイヤモンド社さんの「ハーバードビジネスレビュー」のウェブサイトがニューアルされた記念として開催された特別セミナー「グローバルに活躍できる人材になろう」を聞きにいってきました。講師陣が、著書『ハーバード流宴会術』(大和書房、2012年)が人気の児玉教仁さん(グローバル・アストロラインズ社長)、小沼大地さん(NPO法人クロスフィールズ代表理事)と、『グローバル・エリートの時代 個人が国家を超え、日本の未来をつくる』倉本由香利さんだったからなのです。

場所は明治神宮前駅からすぐのところにあるダイヤモンド社です。いいロケーションですよね(某社に較べると)。真摯な姿勢の小沼さん、巧みに笑いをとって会場を盛り上げる児玉さん、そしていつも通り情熱あふれる倉本さんと、グローバル人材というテーマに対して、それぞれ微妙に違った体験と考え方がクロスオーバーした有用なセミナーだったと思います。会場のお客さんの質問が熱心でしたね。

ダイヤモンド社は最近、ヒット作連発で、その秘密が少しはわかるのではないかと半分スパイのような気分で、からまるは会場に乗り込みました。司会された「ハーバードビジネスレビュー」編集長は伊賀泰代さんのアッパレ本『採用基準』の編集担当者でもあり、このセミナーのように著書と読者の皆さんの接点を持って会場の空気(つまりそれは時代の先頭を行こうとしている皆さんの現場感)を編集者が感じ取ることに、ヒット作連発の理由の一端があるように思いました。
追伸でお知らせを。週明けの25日は終日、面接があるので、この日記はお休みです<(_ _)>。来週火曜日に!
こんにちは、からまるです。

昨日まで学習院大学における佐々木毅さんの最終講義について書いてきたわけですが、じつはからまるは、東京大学における佐々木さんの最終講義も聞いているのです。それは2005年1月29日のことでした。もう8年以上も前のことなんですね。この際なので、そのときにからまるが取ったメモを公開します。いま見返しても、いろいろな気づきを得られます。また、このメモの一部が、2012年3月に刊行することになった『学ぶとはどういうことか』に受け継がれているのです。

     *     *

下部構造からの独自性、政治学にあるのかと経済からは言われた
政治的な現実とは何か?
どんな方法でとらえるか?
「権力をなくす」は眉唾

流行は政治学より思想史
思想史は知的ぜいたく

イデオロギーが現実をつくる
現実の反映ではない
たとえば「新興国」

マキャベリを研究するとは?
素晴らしい現実など見えてこない
→自分の危惧
日本でマキャベリを研究した人はいない
権力が日本でどう見られているのか?
どう作用しているのか?
丸山真男 政治思想史
政治は権力をもつのは常識
70年代は55年体制の安定化→権力があるのは当たり前
...とすると、政治的現実は「変わらないもの」になる
細密画のように解き明かす対象、政治家と政治家が会うことが取材の対象に
儀式化、制度化された安定性の中で政治が行われるようになった
20世紀型システム・冷戦と高度成長によって守られた
牢固な現実、「もの」のように見えてくる
でもそれは、利益や思想が折り重なってできたもの
「現実」の可塑性を忘れてしまう
そういう「現実」への知的違和感があった。「それほどのものなのか?」

どう向かい合うべきか――政治思考
考えたことは、
1 日本政治は国際的文脈の中でどんなものか?
摩擦交渉 政治的限界=自己完結性
2 権力行使のあり方
どう選挙区を満足させているのか?
どういびつか?(権力作用はもともといびつにするから)

政治的現実をよりよいものにできないか?
オールオアナッシングではない、「ある」のではなく「問題を含むもの」が現実

イデオロギー対立から中央と地方の対立へ
当時は制度の問題 古くさい問題 制度の疑問はなかった
制度の疑問を無視=現実を受容する
1989年は絶対になくならないと思ってきたものがなくなると思った年
問答無用のインパクト
政治的サンクチュアリの崩壊
今に至るまでの制度改革が続くと少し変わり過ぎ?

政治的現実は境界線がはっきりしない、「もの」化できない
それに対して、
1 そういうものだ
2 境界線をはっきりさせることが必要
この2の方向でやってきた
政治思想史が役に立った
政治的現実とはいかに多様に見えるかをわからせてくれた

ものを見る→知的な操作が入っている、見えるものしか見えない・見えないことにする
知的徒労感があっても諦めてはダメ

「である」「べきである」の二元論は有害
その間のことを考える「である」の世界は広いはず→丈夫な歯で噛み砕く必要がある
切れる人より頭が丈夫な人が政治学に向く
こんにちは、からまるです。

一昨日のエントリの続き、3月16日に行われた学習院大学における佐々木毅さんの最終講義の模様です。

世界で「冷戦の終焉」が可視化したのが1989年だったのに対して、日本では「冷戦の終焉」だけでなく「政治とカネ」の不祥事が1990年代の政治改革を推進するきっかけになったのでした。この頃までの有権者の政治選択は、政党よりも政治家個人を選ぶものでした。「自民党」の政策がいいから選んだのではなく、政治家個人が投票者にもたらすであろう権益や利得で選んでいました。そこに不透明な金脈の生まれる温床がありました。しかも、いったん選んだらあとは「お任せ」するのが有権者の投票行動でした。

そうした政治選択の結果として選ばれた政治家に、はたして「冷戦の終焉」というむずかしい世界における日本の舵取りができるのか。人を選んで政策は「お任せ」はもうダメで、投票行動を「任せるより選ぶ」に転換する必要があるのではないか。政党は政策論議を鍛え直さなくてはならないのではないか。こうした議論が、佐々木さんもかかわった民間政治臨調(のちの21世紀臨調)が主導した政治改革のベースとなったのだそうです。

最終講義は、最後に佐々木さんが政治を考える上で基礎をなしたウェーバーと丸山真男のいくかの文献を紹介し、いわば研究の種明かしをして終わりました。そして、結びとして、最終講義のタイトルでもあった「平成デモクラシー」が、じつは今度編著として出すことになった書籍のタイトルでもあることを明かしました。

はい、その『平成デモクラシー』の編集に取り組んでいるのが、からまるなのです。
こんにちは、からまるです。

1週間ほど日記を休みました。その間は入稿や初校戻し作業に明け暮れて、連日深夜まで机仕事に没頭(というほどでもないかな)していました。いつの間にか、近所の桜が咲いています。今年は春の到来が早いのでしょうか。出版業界も早く春を迎えたいところです。

さて、先週土曜日の3月16日。からまるは学習院大学におりました。西2号館の302教室で、学習院大学教授・佐々木毅さんの最終講義が行われたのです。教室には300人くらいが詰めかけていたでしょうか。もちろん学生や教員関係者だけでなく、高校の同級生の方々もいらしたようでした。

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佐々木毅さんといえば、2012年の3月に刊行し、現在4刷中の『学ぶとはどういうことか』を書いていただいたのですが、じつはからまるはもっと以前の1990年からさまざまな形でお世話になってきたのです。

最終講義はあまり専門的なお話ではなく、「平成デモクラシー」というタイトルで、1980年代後半のリクルート事件発覚以来の政治をはじめとするさまざまなこの国の改革を現在の視点から振り返り、ご自身の体験と絡めながら位置付けたものでした。

それによると、1990年代の政治改革、地方分権、司法改革は、「権力の構造を組み換える試み」であったといいます。リクルート事件や1992年の東京佐川急便事件など相次ぐ「政治とカネ」の不祥事は、たんに政治家個人の倫理の問題だけなのか? こうした問いがきっかけになって推進されてきたと話しておられました。
こんにちは、からまるです。

先週金曜日のエントリで答えを放置していた問題。ミシンは一家に2台も必要ないにもかかわらず、「2台買ったら1割引き」キャンペーンを行ったら、行わなかったよりも1人あたり3倍も売り上げが増えた理由は?

西内啓さんの『統計学が最強の学問である』(ダイヤモンド社)によれば、お客さんが隣人知人に共同購入を呼びかけたからなのだそうです。つまり、ジョーアン社は、思わぬことに、お客さんをセールスマンにしたのだ、と。

これはからまるにマーケティングの基礎教養がないから驚くだけで、「共同購入した」という答えがわかっていらっしゃった方は多いようですが、この後の西内さんの書きっぷりが面白い。

「統計学的な裏付けもないのにそれが絶対正しいと決めつけることと同じくらい、統計学的な裏付けもないのにそれが絶対誤りだと決めつけることも愚かである」(p121)

くーっ、これも金言ですね。

ところで、この本にはテーマ外なので書いていないのですが、お客さんが共同購入を呼びかけたということは、たんにこのミシンが安く買えるからだけではなく、隣人知人も自分同様に満足できるだろうと呼びかけ人が思えるだけの信頼が、予めこのミシンにあったからだと思うのです。信頼できる品質が大前提ですよね。そうでないと、お客さんにセールスマンになってもらうわけにはいきません。それだけのもの(本)をまず作らないと。

という次第で、編集作業に集中するために、明日から18日月曜日までの1週間、この日記をお休みします<(_ _)>。再開は3月19日!
こんにちは、からまるです。

昨日のエントリに書いた西内啓さんの『統計学が最強の学問である』(ダイヤモンド社)はじつにいい本です。

西内さんも引用しているように、ビッグデータ流行のせいか、グーグルのチーフ・エコノミスト、ハル・ヴァリアンの「私はこれからの10年で最もセクシーな職業は、統計家だろうと言い続けている」という言葉は、からまるさえ知っているほど有名になりました。データ・サイエンティストを今後最も食いっぱくれがない職業として紹介した記事を経済誌で読んだこともあります。本書は、著者が統計学の底力をこれでもかこれでもかと事例を挙げて見せつける、じつに熱い本なのです。

西内さんは、「経験と勘だけの不毛な議論」でものごとを決めることが、いかに大きな犠牲を社会や人々に強いているかを力説します。会社が苦境を脱するために、次にどんな打ち手を繰り出すべきか、延々と「経験と勘」に頼って議論したところで、どうせ誰も確実に結果を見通せる正解などありません。したがって、、

「社内のありとあらゆる『正解のない意思決定』について、正解がないのであればとりあえずランダムに決めてしまう、という選択肢の価値はもっと認められるべきだろう。ただ決定をランダムにすることと継続的にデータを採取することさえ心がければ、後で正確に『それがよかったのか』『どれぐらい利益に繋がったのか』が評価できるのだから、少なくともそちらのほうがより確実に『正しい判断』へと近づく道になることもある」(p122-123)

これはもう金言としか言いようがありません。

ここだけ取り出して読んでもよくわからないかもしれないので、ランダム化比較実験として、この記述の根拠になっている事例を本書から一つ紹介すると、「ミシンを2台買ったら1割引き」という、ジョーアンファブリックという会社が実際に行ったプロモーションキャンペーン。マーケッターなら大体ご存じのようですが、これ、知ってました?

ミシンなんて一家に2台も必要ありません。しかしこの会社は、さまざまなプロモーションキャンペーンのために複数の案を低コストでランダム化して試していたのだそうです。で、この一見バカらしい案も「会議でごちゃごちゃと考えるよりも、とりあえず試してダメそうならやめよう」(p120)と考えて実行に移しました。その結果は驚くべきものでした。

「このキャンペーン広告が表示された顧客は、そうでなかった顧客に比べ平均して1人あたり3倍以上の売上を示したのである」(p120)

どうしてだったのでしょう? その答えは、この本をお読みいただくか、来週のこの日記までお待ちを!
こんにちは、からまるです。

さらに昨日のエントリの続き。「部決」の席では、販売部のプレゼンを受けて担当編集者がコメントを述べます。これがけっこうドキドキするのです。もちろん想定内の部数であれば、とくにドキドキする必要はないのですが、そうでない場合もあります。

幸い、今回のからまる担当2冊は想定内だったのでよかったのですが、想定よりも少ない場合(多い場合というのは、ほとんどありませんので)、会議でしっかり編集者の姿勢を主張して、データやファクトを示しながら販売部に数字を考え直してもらう努力をしなくてはなりません。

この場合、データというのが曲者です。実は今、ベストセラーになっている西内啓さんの『統計学が最強の学問である』(ダイヤモンド社)を読んでいるところなのですが、これを読むと、編集者はあまりに経験や勘に頼りすぎていて、データを正しく解釈するという訓練を怠ってきたなと痛感しますね。データを使った反論が咄嗟に思いつかないのです。

それはつまり、経験や勘が当たったと思っていたことには、実は統計学上の理由があったにもかかわらず、それを己のセンスの良さだと錯覚でき、その上で企画のトライ・アンド・エラーが許された、まことに余裕のある時代だったということなのかもしれません。
こんにちは、からまるです。

昨日のエントリの続き。今日の「部決(ぶけつ)」で、からまる担当の新刊2冊の初版部数が決まりました。担当者としては、まずまずの部数でした。

最近は、本当に初版部数が少ないのです。そして、その少ない部数での決定が増加したことにともなって、1年前くらいならあり得なかった「500部刻み」が恒例化しています。今まで本の部数は、商業出版の場合なら1000部刻みだったのです。で、最近はそれが「500部刻み」。シブいです。

そのうちこれが「100部刻み」になるんじゃないかという兆候まであります。たとえば「数千200部」とか「数千700部」とか。いくら本が多品種少量商品といっても、こうなるとじつに繊細な需要予測になりますね。「その200部の根拠は何?」なんてね。

こんにちは、からまるです。

明日は部数決定会議なるものがあります。略して「部決(ぶけつ)」といいます。文字通り、これから出す本の初版部数を決定する会議なのです。

会議といっても、担当者と部署の部長が集まるもので、それ以上の上長は出席しません。出版社によっては、部数決定会議に社長や役員が臨席することがあると聞きますが、そういうことはないですね。現場の責任で決めることになります。

部数を決めるのは、販売部の仕事です。販売担当者は新刊のゲラや原稿を読んだ上で部数のすり合わせを部長とおこない、その部数にした根拠を「部決」で説明するための資料を作ります。点数が多いと原稿やゲラを大量に読むことになりますから、けっこう大変な作業だろうと推測します。ご苦労様です。

一方、編集者が「部決」までにおこなう必須の作業は、新刊リリースと呼び習わしている、取次店さんや書店さん向きの新刊内容案内書の作成です。本当は表紙のラフまであれば完璧と社内では言われているのですが、からまるが今取り組んでいる本のようにタイトルが決まらない場合は、デザインを発注することもできませんので、それは後回し。しかし、タイトルが仮であっても、リリースくらいは作れます。A4の用紙1枚にワードで作成します。

昔のからまるはワードが使いこなせず、イメージ写真をレイアウトすることもできませんでした。そういうのが上手にできる編集部の同僚がいて、彼が作るデザイナー顔負けの素晴らしい出来のリリースを見て、そうするにはどうすればいいか、四苦八苦したものです。今は以前に比べればうまくできるようになったかな。

さて、部数はいくつに決まることやら。からまる担当の本は2冊あるのです。
こんにちは、からまるです。

本日も入稿作業中というか、その前段階の原稿整理中です。あわせて表紙や本文に入れたいイラストの描き手さんも探し中。こういうときに役に立つのが、普段はランチの共になっている、編集部で定期購読中の週刊誌ですね。考えてみれば、週刊誌は記事だけではないわけで、とくに連載ものには必ず挿絵が添えられているのですから、今どきセンスのイラストの展示場みたいになっています。

という次第で、今日はもう帰ろう。今週は、こういう仕事のライブ中継みたいな日記になってしまいそうです。
こんにちは、からまるです。

今更のことのようですが、タイトル作りはむずかしいですね。5月、6月に出す新刊の準備が進み、タイトルを決定する段階にあるものが数冊。けっこう呻吟しています。タイミングや著者の方の意向を満たすだけではなく、どんな言葉を入れれば書店さんにいらっしゃる一見のお客様に振り向いてもらえるのか、これは永遠に正解が出ない作業です。

でも、最近考えるのは、言いたいことを言うタイトルにしようということです。そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、タイトルの定番みたいな表現に頼って、結局、その本が言いたいことを中和してしまう方向でタイトルを考え勝ちになっている自分を見出します。それじゃダメですわ。

さあ仕事に戻ろう。

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